まひろです。
このところ、君たちのステージを見ているとき、その歌声が光に見えることがある。
歌だからもちろん「聴いて」いるのだけど、もし目に見えるものとして現れたら、君はプリズムを通る光だ。
自ら光を放ち、燦々と輝き辺りを照らすことができる太陽であり、光を受けて昼は青空に静かに佇み、夜は皓々と光る月にもなれる。
あるいは、満点の星。
そして明けの明星であり、宵の明星。
レーザーやLEDのような人工のではない、自然が発する光そのもの。
私の中の君のイメージはずっと総天然色だった。
万華鏡のように見る角度で姿は変わっても、いつでもカラフルな存在。
けれど今は、質感はそれぞれ違う、ガラスや氷や雪や水、水晶や眩い光のように無色透明なもので思い浮かべることが増えているし、しっくりくる。
君のことを、ずっと喚んだり憑かれたりする人と言い表してきたけれど。
先日、とある公演を見たときに、初めて「あぁ、貸してるんだ。これは初めて見たなぁ」と感じた。
物語に身体を貸しているけど、その奥に君が君のままいるのが見える、みたいな。
オカルトとかではなく、受ける印象の話。
喚ぶとか憑かれるって、望むと望まざるとにかかわらず「明け渡す」イメージがあったが、それとは違った。
もしかしたら君の「核と呼べるもの」を感じとったと錯覚しているのかも知れない。
今の私は、その核の周りに漂う何か(空気なのか、温度なのか、それこそ光なのかも知れない)しか見ていないのだろう。
それでも君が「パフォーマンスで客の後頭部ぶん殴れる人」で、「その歌声で聞いている人の耳をひっつかんで自分のほうを向かせられる人」だから目を離せないし、君たちが練り上げて、研ぎ澄まし尽くしたものを受け取った結果、言葉をなくして君の掌の上でただ踊らされることになったとしても、それでいい。
むしろ至極当然のことだ。喜んで踊ろうじゃないか、の気持ちでいる。
そもそも君を「推し」と言い表してもいいものか、自分のことを「君を推している人たち」の範疇に入れてもいいのかわからないまま、ずいぶんと時間を重ねた。
一般的な形容詞として、それ以上に的確に表現できると思える言葉を見つけられなくて、「推し」という単語を選択したことは何度もあるけれど、そのたび内心首を傾げていた。
一年を通して霞の様に頭の中にある自分への問いかけは、君が生まれた夏という季節が近づくたびに、繰り返し頭を悩ませ、毎年答えが出なかった。
結局のところ名乗る覚悟を自分が持てるかどうかなのはわかっていて、それでも先送りを繰り返して。そうこうしているうちに、もはや覚悟ができるのを待つとかそういう話ではなくなってしまった。
今しかできないならするしかない。ここを逃したら後悔なんて言葉では済まなくなる。
オタクなんて何が起きても何もできない。
そんなことは当たり前だ。
だとしても、叶うことなら、辛いこと苦しいこと嫌なことよりも、楽しいこと嬉しいこと幸せなことが上回りますようにとずっと願ってきたし、間違いなくこれからも祈り続ける。
機会があるなら薄桃色を灯すし、桜や兎の意匠をみかければ手に取ることだろう。
「晩ご飯のおかず」を決める日常の一瞬に、君の呟きを思い出すことだってある。
それが「推す」ということになるとしたら。
そう呼ぶことを許されるなら。
私は君を推している。
とみたけさん。
先日、笑い話めかして画面越しに伝えた言葉に、目を真ん丸にしながら答えさせてしまって、本当にごめんなさい。
でもとても、とても嬉しかったです。ありがとう。
あなたが過ごす新しい1年が、どうか今までのいつより実り多い、よき時間となりますように。
お誕生日、おめでとうございます。