いつかの「来年」を待ちながら

今となってはとても忘れることの出来ない言葉がある。
ちょうど今から1年前。
その言葉を口にした彼の笑顔と共に、多分ずっと覚えていると思う。
 
 
彼は歌う人で、踊る人で、歌って踊る人で。
その歌で、聞いている人間の感情を鷲掴みにできるし。
その輝きで、どこまでも光を届けられる。
 
そう確信しているけれど。
残念ながら自分はその素晴らしさを語る言葉を持たないし、瞬間を切り取り描くこともできない。奏でる声を持たないし、称える術を持たない。
そう思っていた。思っている。昔も今もこれからも。
 
 
 
だからこれから書くのは1人のファンがライブを観ているとき、歌を聞いているときに、彼からなにを感じているかのただの羅列でしかないことを、あらかじめ記しておく。
 
 
 
 
 
さて。
 
たとえば春の夕方。
柔らかい暖かさと伸びた陽の光が傾いていくときに感じる少しの寂しさ。
 
夏の宵闇。
日が落ちてどれだけ時間が経ってもいつまでも暗くなりきらない群青色の空と、まとわりつくようなぬるい空気。
 
秋の昼。
高くなる空と鮮やかに色を変える木の葉と木枯らし。
 
冬の夜明け前。
鋭い寒さと静けさ。いつまでも太陽が昇らないのではという不安。
 
たとえば薄玻璃。
そこに在るかないか注視しなければわからないほどかすかな、けれどふとしたきっかけで儚くなる危うさ。
 
たとえば水。
光を反射する氷の粒、噴き上げる間欠泉、立ちこめる霧、篠突く雨、鮮やかな入道雲とどまることなく形を変える、そのありさま。
 
深い海の底から届かない光を求めて見上げる絶望も、眩いけれど柔らかな光をまとった希望が見える気がすることもある。
 
 
 
「華がある」とはよく聞くし、自分でも彼を端的に表現するときによく使う言葉だけれど、感じとる「華」もいつも同じではない。
 
 
 
たとえば桜。
咲く前の枝振りがほのかに染まる姿や満開の可憐さの一方で、その足元には死体が埋まっていると表現される幽玄さ。
 
紫陽花。
花開いた地、それぞれに色を変えるその変幻自在さ。
 
向日葵。
陽光という顔を上げた先にあるものを知っている強さ。
 
姿をみせずともその香りで己の存在と季節を告げる。
 
椿。
季節が変わるまで、満開でいるその気概。
 
そして薔薇。
洋の東西を、時代を問わず愛されるその姿。
 
 
喜怒哀楽という感情のみならず、情景を思い起こさせることができること。
するはずのない香りや、感じるはずのない温度、空気の揺らぎがそこにあるかのように感じさせることができること
人の感情を動かすのも眼を惹きつけるのも並大抵のことではないはずで、それができる人を知ることができた幸運を思う。
 
 
コロナ禍と呼ばれる日々のなかで、なにごともなく日常を過ごすこと、ライブが開催されること、そこに足を運べること、友達と会って話して呑んだりすること、そのすべてがどれひとつ当たり前でも確実なものでもなくなった。 
そんな状況だから。
というより、だからこそ。
言祝ぐことは止めたくないし諦めたくない。
言霊という言葉が示すように、選ぶ言の葉に、想う感情に、もし力を持たせることができるのならば、文字通りの祝詞として届けたい。
仰々しく文字数を費やしてみたものの、オタクの書くことなど呪詛と紙一重なのは承知しているし、なにをどう願えばいいのか、そもそも願うことすら傲慢なのではと考えないでもないが。
害なすつもりは欠片もないものとして許されるだろうか。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
とみたけさん。
 
昨年の生誕祭、喧騒の中のお渡し会で
「また来年!!」
そう言ってくださった記憶を、今、噛み締めています。
いつか、どんな形でも、またお祝いできる機会が訪れることを願っています。
毎年毎年、どれだけ考えても同じ言葉になってしまいますが。
新しい一年がこれまでと同じように、そしてこれまで以上に良き時間となりますように。
お誕生日おめでとうございます。