私が自分のなかにある何かを文章にしようとした時、見える情景に言葉を当てはめていく場合と、最初にうかんだ言葉があとに続く言葉を連れてくる場合の二通りがある。
彼にたいしては、明らかに後者で。
一番最初に浮かんだのは、「かける」だった。
「駆ける」
速く走る。疾走する。攻め進む。
「懸ける」
捧げる。託す。
「架ける」
かけ渡す。物と物の間を渡す。
「翔ける」
高い空を早く飛ぶ。
歌舞伎や落語などであるように、すでにある「名」に「体」が追いつくのと、自らの「体」に「名」を選ぶのを同じものとして考えるべきではないかもしれないが、いずれしても「名は体を表す」とはよく言ったものだと思う。
その上でさらに。
「名」が浮かび上がらせるものから離れた時になにが見えるか。
それが、「歩く」だった。
あれだけ飛べる人だけど。
そのダンスをして「重力仕事しろ」とファンに言わしめているけれど。
私にとって、彼は「歩く人」。そして「歩みを止めない人」だ。
「いちどに道路ぜんぶのことを考えてはいかん、わかるかな? つぎの一歩のことだけ、つぎのひと呼吸のことだけ、つぎのひと掃きのことだけを考えるんだ。いつもただつぎのことだけをな。」
また一休みして、考えこみ、それから、
「するとたのしくなってくる。これがだいじなんだな、たのしければ、仕事がうまくはかどる。こういうふうにやらにゃあだめなんだ。」
実は「歩く」イメージに付随してうかんできたのが、この『モモ』の中に出てくる道路掃除夫ベッポの言葉だった。
目指すものの大きさ。
そこまでの距離。
道のりの険しさ。
眼に入らないはずがない。
どこへ向けて発つべきか、どれだけの力で踏み出すべきか。
迷うことはあっても、歩みは止めず。
お供に亀ではなく鰐を従えて。
一心不乱に脇目もふらずというよりは、道端の花の可愛らしさや空の青さを眺め、隣の誰かと笑いながら。
できること、するべきことを見つけて進んでいくその道が、逆さ小路であったらいいのにとどうしても願わずにはいられない。
そして、「Wandervogel」
彼がこの言葉(の一部)を名前の由来にもつことに、私は勝手に心強さを感じている。
なぜならそれは、どんなに遠くても荒天でも地図がなくても目的地にたどり着けるということだから。
羅針盤も松明も狼煙も灯台もGPSも指し示すことが出来ないところでも、必ず。
今が北極星すらみえない闇夜だとしても、明けない夜はないと聞くし、鬨の声を上げるときはきっとくる。そう信じている。
フォーゲルさん。
幸運なことに、直接お話できる機会が今までに幾度かありました。
そのどこかで、「(接触や手紙は)欲しい言葉をもらえる」と話されていたことを覚えています。
接触イベントでの己の挙動不審さや文才のなさを考えると、そう思ってもらえる言葉を自分が伝えられているかは甚だ疑問が残ります。が、それはとにかくさておいて。
新しい一年が、フォーゲルさんの言う「欲しい言葉」をたくさん眼にできる良き時間になりますように。
お誕生日おめでとうございます。