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まひろです。

 

夏になるとお誕生日のお祝いを書いてはどこかに向かって投げるようになって、3年目。

毎年楽々書けているわけでは決してないけれど、今年ほどきっかけになる言葉が浮かんでこないことも今までにありません。

言わずもがな6月の発表がそうさせているのは明白です。

あれから2か月近くが経とうとしていて、その間にブログも読んで配信も見てYouTubeに上がった動画も見て直接お話する機会も幸いあって。

ある程度自分の感情は凪いでいるものだと、折り合いはつきつつあるものだと、そう思って生誕祭の会場に向かいました。

でも、そんなこと、あるわけがなかった。

目の前で繰り広げられる演目があまりにも、一番美しい、一番適切な型に置いてくるというか、武道の演武のような、狙いすましてあるべき姿にあてはめていくように綺麗な美しいものに見えて、自分がどう感じているのか、何を思って涙が流れているのか、見ているその時は全く分からなかったけれど。

 

寂しい。

口にしたところで何が変わるわけでもなくても。

寂しいのは、どこまでだって寂しい。

それがまだ、今の偽らざるというか、偽りようのない感情なのだと改めて思い知りました。

 

こうなって初めて、知っているつもりだったけどわかっていなかったなって気がついたのは、自分の日常がどれだけあなたによって彩られているかってこと。

「オタクの日常に少しでも自分達がいられたらいいな(意訳)」

って、MeseMoa.さん達は口にするじゃないですか。

そんな風に言ってもらえることはありがたいことだなと感じつつ、その一方で私は、

「そう言ったからにはそうそう簡単に(オタクに)忘れてもらえると思ってもらっちゃ困ります」

と思っています。

記憶は、嫌が応でも薄れていくもの。

ましてアイドルが持っているオタクの記憶なんてなおのこと。

それは、そうあるべきなのだろうと思います。

その反面オタクである自分は、できるだけ色鮮やかなまま覚えておこうとするだろうというのは想像に難くありません。

 

「武道館楽しみ」と「推しの卒業」を同時に抱えて廻す日常に慣れることがいつになるのか。そんなことはわからない。むしろ3月のその日まで、なんで涙が出るのかわからない(わかりたくもない)まま何度でもライブを見ながら泣くだろうし、武道館公演のそのあとは、改めてもて余すことになるであろう自分の感情と、どう間合いを図るか、しんどくない距離感をどう見つけるかにかかってくるんだろうな。

 

餞の言葉はまだ早いとあなたは言うし、確かにそれもそうです。

でもなんていうかな、今までのいつだってあなたの、あなた達の幸いを願ってきてしまって、それが習い性になりすぎて、2023年の12月までそれは変わらないだろうし、その先もずっとそうだと思います。

 

今年のこの文章は、ただのオタクのお気持ち文にしかなりませんでしたが。

だからこそ、思っていることを書かないのもおかしな話なので。

やっぱり今年も書いておきます。

 

フォーゲルさん。

あなたを応援できることは、本当に幸運なことだと思っています。

アイドルでいてくれてありがとう。

新しい1年が、あなたにとって実り多い善き年となりますように。

お誕生日おめでとうございます。

colorless

まひろです。

 

このところ、君たちのステージを見ているとき、その歌声が光に見えることがある。

歌だからもちろん「聴いて」いるのだけど、もし目に見えるものとして現れたら、君はプリズムを通る光だ。

自ら光を放ち、燦々と輝き辺りを照らすことができる太陽であり、光を受けて昼は青空に静かに佇み、夜は皓々と光る月にもなれる。

あるいは、満点の星。

そして明けの明星であり、宵の明星。

レーザーやLEDのような人工のではない、自然が発する光そのもの。

 

私の中の君のイメージはずっと総天然色だった。

万華鏡のように見る角度で姿は変わっても、いつでもカラフルな存在。

けれど今は、質感はそれぞれ違う、ガラスや氷や雪や水、水晶や眩い光のように無色透明なもので思い浮かべることが増えているし、しっくりくる。

 

君のことを、ずっと喚んだり憑かれたりする人と言い表してきたけれど。

先日、とある公演を見たときに、初めて「あぁ、貸してるんだ。これは初めて見たなぁ」と感じた。

物語に身体を貸しているけど、その奥に君が君のままいるのが見える、みたいな。

オカルトとかではなく、受ける印象の話。

喚ぶとか憑かれるって、望むと望まざるとにかかわらず「明け渡す」イメージがあったが、それとは違った。

もしかしたら君の「核と呼べるもの」を感じとったと錯覚しているのかも知れない。

今の私は、その核の周りに漂う何か(空気なのか、温度なのか、それこそ光なのかも知れない)しか見ていないのだろう。

それでも君が「パフォーマンスで客の後頭部ぶん殴れる人」で、「その歌声で聞いている人の耳をひっつかんで自分のほうを向かせられる人」だから目を離せないし、君たちが練り上げて、研ぎ澄まし尽くしたものを受け取った結果、言葉をなくして君の掌の上でただ踊らされることになったとしても、それでいい。

むしろ至極当然のことだ。喜んで踊ろうじゃないか、の気持ちでいる。

 

 

そもそも君を「推し」と言い表してもいいものか、自分のことを「君を推している人たち」の範疇に入れてもいいのかわからないまま、ずいぶんと時間を重ねた。

一般的な形容詞として、それ以上に的確に表現できると思える言葉を見つけられなくて、「推し」という単語を選択したことは何度もあるけれど、そのたび内心首を傾げていた。

一年を通して霞の様に頭の中にある自分への問いかけは、君が生まれた夏という季節が近づくたびに、繰り返し頭を悩ませ、毎年答えが出なかった。

結局のところ名乗る覚悟を自分が持てるかどうかなのはわかっていて、それでも先送りを繰り返して。そうこうしているうちに、もはや覚悟ができるのを待つとかそういう話ではなくなってしまった。

今しかできないならするしかない。ここを逃したら後悔なんて言葉では済まなくなる。

オタクなんて何が起きても何もできない。

そんなことは当たり前だ。

だとしても、叶うことなら、辛いこと苦しいこと嫌なことよりも、楽しいこと嬉しいこと幸せなことが上回りますようにとずっと願ってきたし、間違いなくこれからも祈り続ける。

機会があるなら薄桃色を灯すし、桜や兎の意匠をみかければ手に取ることだろう。

「晩ご飯のおかず」を決める日常の一瞬に、君の呟きを思い出すことだってある。

それが「推す」ということになるとしたら。

そう呼ぶことを許されるなら。

 

私は君を推している。

 

 

 

 

 

 

とみたけさん。

先日、笑い話めかして画面越しに伝えた言葉に、目を真ん丸にしながら答えさせてしまって、本当にごめんなさい。

でもとても、とても嬉しかったです。ありがとう。

あなたが過ごす新しい1年が、どうか今までのいつより実り多い、よき時間となりますように。

お誕生日、おめでとうございます。

とはずがたり

これは応援してるグループが原点回帰するなら、年寄りは懐古な回顧してみよう(それからちょっとしたお祝いも)と書いた文章です。

 

 

まひろです。

 

「アイドルにはまるのはMeseMoa.が初めて」

折に触れて目にすることのある文章。

御多分に漏れず私もその一人です。

テレビで見られるアイドルだけでも結構な数がいて、かつてはその中で写真集やライブDVDを購入したこともライブに足を運んだこともありましたが、「はまる」ところまではいかず。

ずっと好きで長く聞いていたのは、

「ひとつの物語(歌)を紡ぐために集まった人達」。

みんなして入れ代わり立ち代わり1stからBassまで歌うわ踊るわ作詞作曲するわ提供するわ喋るわする5人組。

良し悪しや是非とは全く関係なく「単推し」という概念とそこそこの距離がありそうな沼(個人的な意見です)で育ったからか、5人の兄さん達以外のアーティストさんが気になった時も、集団が作り上げる空気や世界に惹かれてから個を認識するのが常でした。

だからこそ、

「10人集まったらひとつの物語が始まった人達」

であるMeseMoa.さんにはまったのは、自分にとって極めて珍しいことと言えます。

 

とは言え、実は私は「推す」ということがわかりません。

「推す」ってなに?どういうこと?何をどうすれば「推してる」ことになる?

ずーっと頭の片隅に置いたまま。

私がしてきたのは、

「この子らちゃんと食べてる?寝てる?大丈夫?」

というアイドルに対して抱くには完全に的外れな感情を持つことに始まり、

「(絶対に)たいしていない」のに「なんだかいる」

と聞くくらいの決して高くはない頻度でライブやイベントに足を運び、

「いつの間にこんなに」

と棚を埋めるCDとDVDに気づいて唖然とする、くらいのことで。

客観的にどう見えるかはさておいて、沼のほとりで水面に浮かぶ波紋を眺めるくらいの気持ちでずっといます。

だから、応援しているけれど、応援できていると思ったことはないのです。

 

 

 

MeseMoa.さんにはまって、相応の時間が経ちました。

「アイドル」というカテゴリにいる人達のファンになったのは初めてのことで、だとすると彼らの成り立ちにある女性アイドルや、某大手男性アイドル事務所の子たちにもはまったりするのだろうかと思っていましたが、そうはならずに今を迎えています。

好きなものを好きになった時の気持ちのまま好きでいるのは、難しいことです。

変わらずにいようと殊更に心がけてきたわけでは決してないし、今となっては好きになった時の気持ちなんて霞のようで、はっきりとは思い出せません。

ただ折に触れて思うのは、「あの頃は楽しかったし、今も楽しい」といえることの幸運です。

楽しいことを楽しい、嬉しいことを嬉しいと、素直に感じながらどこまで自分はついていけるだろうか。

もしかしたら火の鳥が大空を飛んでいくのを地上から見送ることになるのかもしれないけれど、それはそれで本望。

見届け方にもいろいろあるよなー、と思っています。

いました。

 

 

日本武道館公演決定

 

 

 

この発表を聞くまでは。

 

アイドルドリーム、とは聞くものの。

叶えてほしいと願っていたものの。

まさか現実のものになるとは。

立川公演からの帰り道、

「武道館だって……」

「武道館だってさ……」

「武道館……」

「生きようねぇ」

「生きねば」

珍しく連番したお友達と口々につぶやきながら、まるで現実と思えないまま家路をたどりました。

発表された瞬間に耳にした、誰もが思わず出してしまった歓声は、コールが許可された公演に行かれなかった自分が2年ぶりにライブ会場で聞くことのできた歓声で。

もしかしたら、それを超える歓声を、MeseMoa.さんに聞いてもらうことができるかもしれない。

その願望が、オタクが来年3月までの日常を倒す武器になる。

そんなことを考えています。

 

 

10年ひと昔、という言葉があります。

かなえたい夢があるにしても、長すぎる時間です。

 

「何一つ諦められない」

 

どう考えても、本来その一文に集約できるような「思い」や「決意」ではないだろうことだけは、想像できます。

どうかどうか、無事に2023年3月14日を迎えられますように。

願わくば超満員の、光の海を。

 

 

2022年5月10日

MeseMoa.10周年おめでとうございます。

 

MeseMoa.さんの新しい1年が、今までよりも実り大きな時間となりますように。

望む形の幸せを掴めますように。

ライナーノーツ2021

まひろです。

期間限定で「三十一文字のよしなしごと」というタグをつけてツイートしておりました。

(『みそひともじのよしなしごと』と読んでいただけるととても嬉しい)

自己満足でしかないのですがこれもまた一興という、師走の1ヶ月間のお目汚しお許しいただきありがとうございました。

 

 

どこが三十一文字やねん、という出落ち感満載ですが、

 

マーベラス スプレンディッド ジーニアス

キュート ハンサム ソーゴージャス!!

 

ほらね?(なにがほらねなんだか)

他沼にある他己紹介ソングで、あるメンバーさんがスパイスの名前を羅列することで言い表されているのを真似っこしてみようと思ったのと、「死ぬほど褒めて」と言われましても私は言葉を尽くせないのでせめて、という。

 

 

一番最初に思い浮かんだのは藤原道長

『この世をばわが世とぞ思ふ望月の 欠けたることもなしと思へば』

でして、「いやそれなんか違う(ていうかだいぶ違う)」ってなったんです。

でも月と、満を持してって言葉のイメージで表したくて、こうなりました。

「彼の人」は、MeseMoa.のとみたけさんです。

 

 

ステージの上に立つ人のことを積極的に神棚に奉っていくタイプのファンなのですが、なんだかわりとしょっちゅう降りてこられている気がする。降ろしてんじゃないの。降りてきちゃうの。

その度に『言っといてー!』とか『聞いてない!』ってこっちがあたふたするのを面白がられている気がする。いやいいんですけどねあなたたちが楽しめるなら。

 

 

ひと頃よりはライブに行くことイベントに参加することの心理的ハードルを低くしている(良し悪しは別として)んですが、誰に憚ることなく泣いたり笑ったりコールしたりできる時を待ち望んでるので、解禁された暁にはどうにかしてその場に潜り込んでいたいなーと思う。

 

 

そもそも私は信号機の虎視眈々(だと思う)で彼らを見つけ、わ気愛でとみたけさんを気になりだした(はず恐らく)わけですが、自分が今のようにライブ通いをするに至ったきっかけはノックソさんだったりしまして。

伝えられる機会があるうちにそのことのお礼を言っておこうって思ったよ、という。結果的に1分で伝えきれるだけの話術が自分にはないと痛感しましたよね(完全に想定内)。

 

 

ぎりぎりまで「夏空見上げ」で「祈ったあの日」でした。

日本語しか話せないのに簡単に言葉を失うし、鰯の頭も信心からとなんでも頼る(というのかすがるというのか)し、わりとすぐ天を仰ぎがちな人間なんです私は。

何もできないのは、そんなのは当たり前なんだけど。

それでもなにかをせずにいられない時というのはどうしたってあるものですね。

 

 

頭でっかちに考えすぎるのが通常営業なのですが、それにしたってこの2年はいろいろ酷すぎるんじゃない?って自分の肩掴んで揺さぶりたいくらいには素直さにかけている自覚はあります。

 

 

前日が上の句ならこの日は下の句、みたいな。

私の中で対になっています。

自分が勝手に判断して切り離してきたことが、実は一番大事で一番必要だったと改めて目の前に突きつけられて、でも今さらどうしたものかわからなくてつくったもの、です。

ライナーノーツと言いながら、具体的なことにはまだ時期的に触れるのが早い気がして何も書けないし、今年はそういうのが多くなりました。

 

 

これはもうそのままです。

今年入ることのできた公演がことごとく関係者席の後ろの席で、後輩さん達とかを否応なく眼にすることになったんですよね。

(客席の傾斜角度の関係とかでまっすぐ前向いてるだけでも)

なんていうかやっぱり「タダで見ちゃなんねぇ!」って気持ちが先立つので。

来年はなにとぞその辺御考慮下さいいーぷらの神様(だからって「ご用意できませんでした」は勘弁してください)。

 

 

物理的にというよりは完全に自分のスタンスとしての距離を測り続けています。

間合い、に近いかもしれない。

ニュアンスですけどね。

 

 

ファンとしてそれはどうなのって、他ならぬ自分自身が一番思っていますが、私「褒める」のがめちゃくちゃ苦手で下手なんです。

烏滸がましさが先に立つというか「自分にできないことができる人」に何を言ったらええねん、となる。で、それを拗らせて貝になる。

そういう自分でもできることしてきたことってなんだろうと考えたとき、「楽しみに待つ」ことはしてきたし「楽しみにしている」ことを伝えようとはしてきたなって。伝わるかはまた別として。

おそらくこれからも自分にできるのはそのくらい。

 

 

ごくたまに、稀に、特典会のやり取りの中で「お願いだからそんなに低く見積もらないでよー!」ってどうやったらこの子に伝わるんだろうって言葉に詰まることがあって。

超絶限られた時間と語彙力では根拠なく「大丈夫よー」ってへらりと繰り返すしかできないから、後からでも「だから言ったじゃん!!!」ってぶん投げたくなる。

 

 

年の瀬ギリギリまでなにがしかのイベントがあるから、ということもあるとして。

これがこちらからする挨拶ならまだ自然。

けれどMeseMoa.さん達は共通して「今年はこれが(最後)?」といった内容を口にしてくれたりする(行ったことがないメンバーさんもいるので断言は出来ない)。

テンプレといえばそれはもちろんそうなのだけど、それでも「来年もよろしく(お願いします)」なんて言葉を推しと交わせる世界は不思議だし、とても愛おしい。

 

 

 

幕張のMeseMoa.さん達を見たとき。

陽之鳥を知ったあと。

殺生石セッションのリリイベを画面越しに見たとき。

本当にこの人達は全部大事にしているみたいで、大事に抱えたまま前を向くし、どこまでも飛ぼうとする。そう見せる。

置いてくることの方が多分容易いだろうに。


うまいこと手のひらで転がされていると思いつつ、それでもアイドルというのは本当に夢を見せるのが上手い人達だと思う。

 

 

ふと。本当に何気なく。

どうしてあんなバイタリティがあったのだろうと。

「楽しい」ということだけでは説明のつかないような体力だったなぁと懐かしく思い出したよ、というだけの句。

 

 

こんなに長く応援できるとは思っていなかったし、こんなに何回も特典会とかに参加することになろうとも欠片も思っていなかった。

 

 

あれだけの情報量を処理することを私の脳みそはもう放棄しているので、せめてなにか書き留められるくらいの断片くらいは残しておいてもらいたい切実に。

 

 

方向性云々とか好き嫌いとか戦略とか全く頓着しないファンなので見たいものをただこぼしていくのだけど、ファントムにもアマデウスにもトートにも世界の王にもなれる人だともう随分長いこと思っているし、勝手に期待している。

演じられるというだけでなく、なんていうか概念?の上でもそうなれる人だと思う。

 

 

いつかのFWのインストにあわせて終演後にファンが歌ったりとかもそうなんだけど、わりとイルミィさん讃える気持ちを表出させることを躊躇しないという印象をずっと持っていて、特にこのコロナ禍においては、無事に幕が上がって幕が下りることの奇跡みたいなものをみんなどこかで感じている気がする。

だから、MeseMoa.さんのみならずありとあらゆる関わっている人、見ている人はもちろん、あの空間、時間そのものへの「おめでとう」「ありがとう」の拍手なのでは、と思います。

(めせらい「中野公演の裏側#4」での皆様へ向かって)

 

 

客観的にどう見えるかではなくて、自覚としてはいつまでもこういうかんじなんだけど。

 

 

ちょうどこの日がコンビニプリントの締め切り前日で、お知らせツイートがMeseMoa.さん達から出ていたりして。

わりとなんか、生活に根差した(といえば聞こえはよいがつまり行き当たりばったりに作った)句。

 

 

今年もお手紙の書けない年でした。

だいたい自意識過剰のリミッター発動させちゃうのがすべての原因なのです。

わかっちゃいるんです。

なので、通し勤務(月に3~4回ある、7:00~翌9:00までの勤務。)明けの、注意力散漫な状態を利用して、お手紙を書いたりしていました。

もちろん、失礼のないようには十分気をつけた上でのことですが。

 

 

たじふぁんの日。

FWという続編がある今となっては、どこまでも微笑ましい。

歌詞の中の登場人物とはいえ、なんとなくどこかにいそうな、そんな気がしてしまいます。

 

 

伝えようとするけれど、伝わらなくていい。(伝わったらそれはとても嬉しいけれど)

それが自分の基本スタンスなのですが、クリスマスくらいはさ。なんとなく、届くことを願ってもいいのじゃなかろうかって、そう思って。

 

 

まぁね、いろいろありますわね。

自分のありたい形には、なかなかに近づけないものよねって反省。

 

 

特定の信仰は持っていないのですが。

クリスマスはなんとなくにわかに世界平和というかせめて自分の見知った世界の人達が穏やかでありますようにと願ってしまう。

 

 

特典会で交わしたあるやり取りと、殺生石セッションの感想とがまだ整理がつかないでいるのですけど、自分にできてないこと、出来ないことってこれだなぁと。

 

 

ある種の呪いとエゴの塊でできた祈りのような何か。

 

 

殺生石セッションの、MVが公開されるより先に出た画像。

それを見たときの第一印象に打ちのめされたまま、今年が終わってしまうなぁ。

 

 

深夜にね、配信をしてくださるじゃないですか。

なかなかタイミングあわなくて聞けなくて、やっとアーカイブ聞こうとしても途中で寝落ちしちゃって、いつまでも聞き終えることができなくてね。

 

 

もうねーなんていうかねー。

とどのつまり呪詛でしかないんだけどさー。

わかってはいるんですけど。

(わかっているならするなという話ではある)

だけどもう祈る以外に、願う以外になにができるんだろうねぇって、結局はそこに行き着いてしまう。

 

 

Twitterに予約投稿機能があると知ったことと、例年になく序盤でストックが作れたこともあって、気がつけば三十一の呟きをしていました。

今年は、今までのいつよりも思ったことをそのまま出していたので、本当に同じことを手を変え品を変え繰り返し書いただけになりました。

改めてなにか書こうとしても、推しの人達に対しては「元気でいてくれ」と「あなたが望む形の幸せと未来を掴めますように」の2つしか自分にはないんだなぁと再確認した31日間でした。たとえそれが自己満足でしかなくても。

でもしばらくは、それはそれで良しとしてファンでいつづけようと思っています。

 

いつもいつでも。

私はMeseMoa.さん達からたくさん幸せをもらえていること、とてもありがたいなぁと感じています。

ままならぬ時間がこんなに長くなるとは思ってもみなかった今年も終わりますね。

どうかみなさま、良いお年をお迎えください。

【2020】よしなしごと【アーカイブ】

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【2019】よしなしごと【アーカイブ】

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【2018】よしなしごと【アーカイブ】